ブログ形式で歴史・歴史関連の話題を紹介致します。

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平安京散歩~後編~

こんばんは、竹河です。
昨日の続きを書いていきますね。

大極殿跡から歩くこと数分。
辿り着いたのは
平安京創生館(京都アスニー)

平安京1
こちらは平安京の造酒司(みきのつかさ)倉庫跡に
建てられている施設です。

平安京2
平安京3
造酒司とは朝廷の行事や神事に用いられる酒・酢などを
醸造していた役所。
京都アスニー建設に伴う発掘調査で
造酒司の高床式倉庫と考えられる柱穴が発見されました。
(エントランスの模様は、その柱を示しています)。

↑も良いのですが
ここのメインは…
平安京4
平安京5

この平安京復元模型
平安京は東西4.5㎞・南北5.2㎞の方形の都市でした。
この模型は1000分の1のスケールで
平安時代400年を現しています。

平安京7
清水寺。

この模型の他
鳥羽離宮復元模型豊楽殿復元模型
洛中洛外図屏風(上杉本)の陶板壁画なども
見ることができて
何と無料!

平安好きな方には
非常にオススメな施設です。

平安京創生館(京都アスニー)http://web.kyoto-inet.or.jp/org/asny1/souseikan/
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平安京散歩~前編~

こんばんは、竹河です。
9月に入りすっかり涼しくなりましたね。

先日、京都へ行く機会があったので
平安京の史跡に足をのばしてみました。

JR二条駅から
千本通りを北上すること10分強。
大極殿1

丸太町通りと交差する大通りが
平安京の大極殿跡(朝堂院跡)。
朝堂院は平安京の中枢だった場所です。

大極殿2
交差点を少し北に入った辺りにある石碑
明治時代に建てられた物だそうです。

実際の大極殿は、この碑からややずれた場所
(丸太町通りと千本通りの交差点)だったことが
後に分かりました。

大極殿6
大極殿3
現代は小さな公園です(^_^;

大極殿4
ちゃんと説明書きもありました。
(「源氏物語ゆかりの地」としての紹介ですが)

大極殿5
ここから徒歩数分の場所にあるのが
平安京創生館(京都アスニー)
竹河の目当てはココだったのです(^_^;

<後編につづく>






北の庄城址

こんにちは、竹河です。
先週に引き続き、福井の史跡を紹介をしていきますね。

皆さんは、浅井三姉妹
ご存じでしょうか?
戦国武将・浅井長政と、織田信長の妹・お市の方との
間に生まれた、三人の娘。

三姉妹は、浅井氏滅亡の後、母・お市と共に織田信長に引き取られて
いましたが、本能寺の変で庇護者を失ってしまいます。

そこでお市は、織田の重臣であった柴田勝家に再嫁し、
娘達と共に、尾張から北の庄城へ移り住みました。

JR福井駅からほど近い場所
彼女達の義父である柴田勝家の城
北の庄城はありました。

天下の名城と云われた北の庄城ですが
天正11年(1583)、豊臣秀吉の軍に攻められて落城します。
勝ち目が無いと悟った勝家は自ら火を放ち、妻であるお市や
一族郎党と共に最期を遂げたのです。

しかし、お市の娘であった三姉妹は助けられ
秀吉の庇護の下、それぞれの道を歩むこととなります。

・長女・茶々豊臣秀吉の愛妾となり
「淀殿」と称されました。秀吉の跡継ぎ・秀頼を生み絶大な権力を手に入れますが、
徳川家康と戦いに敗れ、最後は大阪の陣で命を落とします。
・次女・は京極高次の正室となり、後に、茶々と袂を分かち徳川方へ
付きます。
・三女・については大河ドラマで取り上げられた為
ご存じの方も多いのでしょうが、徳川二代将軍・秀忠の正室となり
千姫や家光を生みます。その後、将軍の御台所として重きをなしていきました。

北の庄城址は、現在では公園となっています。
その一角の柴田神社には
勝家やお市の方・三姉妹の像や、北の庄城の模型が在り
往時を偲ばせます。

柴田神社

sibatajinjya3.jpg
柴田勝家像

sibatajinjya4.jpg
お市の方像

sibatajinjya2.jpg
三姉妹像

盛者必衰

こんにちは、竹河です。

もうすぐ夏コミですね。
参加される皆さん、特にサークルの方々は
追い込みの時期だと思われます。
天気の移り変わりが激しいので
どうぞお体にはお気を付けてくださいね。

閑話休題。

先の3連休、竹河は
福井県の「一乗谷朝倉氏遺跡」へ行ってきました。その紹介をちょこっと書いていきますね。

朝倉氏は、越前の戦国大名として知られていますが
元は兵庫県養父郡出身の武士だったようです。

初代・孝景は応仁の乱(1467~1477)の際、
西軍として参加していましたが、後に東軍に寝返り
一乗谷に居城を移したのが始まりのようです。

一乗谷遺跡1
その後、4代・孝景(初代と同じ名で紛らわしい…)の時
隆盛を迎えますが、天正元年(1573)5代・義景の時、織田信長との争いに敗れ、
ついに朝倉氏は滅亡、一乗谷の町は灰燼に帰すこととなりました。

その遺構は福井市街の東南、約10キロに位置し、
400年以上もそのまま埋もれており
昭和40年代頃から、史跡公園として発掘・整備が進められてきています。
(写真は朝倉館の入り口・唐門

一乗谷遺跡2
5代義景公の墓所
一乗谷遺跡3
朝倉義景館跡。。
かつては、都から風流人を招いて、豪奢な宴が催されていたのでしょう。

一乗谷遺跡4
諏訪館跡庭園
一乗谷には、室町末期の様式を伝える庭園が多く
当時の文化レベルの高さが伺えます。
諏訪館は、義景の愛妾・小少将の屋敷跡と伝えられています。

一乗谷遺跡5

一乗谷遺跡6
町並立体復原地区
領主の館と道を挟んで位置しています。
発掘調査により、武家屋敷や寺院、商人の町屋の
存在が確認されたそうです。
かなり大きな城下町だったのですね。
(こちらの復原町並では、歴史イベント等が行われるようです)

☆一乗谷朝倉氏遺跡資料館…http://www.pref.fukui.lg.jp/doc/asakura/

日食を観た日、石見銀山へ行きました。②

こんばんは。幽翠街道です。
今現在のマイブームは「うた恋い。」です。竹河様に奨められたのがきっかけですが、第三巻の清少納言と藤原行成の友情(?)にドハマリました。来月からのアニメ版が楽しみです。

さて、前回の続きです。

日食を観た後、ホテルを出発し、JR山陰本線に乗車。行き先は温泉津です。
温泉津駅からは石見銀山へ行くには、タクシーを使いました。
石見銀山のガイド(http://iwamiginzan-guide.jp/)の申し込みが石見銀山公園という観光案内所で出来ると聞いたので、初心者はここから石見銀山の銀山地区コースを見て歩きスタート。

石見銀山は伝承上では南北朝時代から銀が採れていたそうですが、産業史として現れてきたのは、大永6年(1526)頃。博多の商人神屋寿禎(かみやじゅてい)が石見銀山を発見したのが始まりだそうです。
そして、天文2年(1533)神屋寿禎は、隣国の李氏朝鮮から宗丹・桂寿をヘッドハンティングし、銀の精錬に灰吹法(はいふきほう)を導入させ、銀の大量生産を起こさせました。
これがきっかけで、日本は銀の輸入国から輸出国へと変貌し、銀を中心としたアジア経済に大きな変流をもたらしました。

下河原吹屋跡
その灰吹法により銀を洗練した吹屋の一つ、下河原吹屋(しもがわらふきや)跡。 江戸初期のものだそうです。


石見銀山は当初は露頭掘りだったそうですが、時代が下るにつれて、地下深く坑道を掘り進めて採掘するようになると、当然労働環境が劣悪になります。坑道で掘り進めば粉塵が出るし、狭い地下で灯りをともすため二酸化炭素も充満しちゃう。それが原因で呼吸器系の疾患にかかる人が続出。また灰吹法は鉛を溶かして銀を精錬するので、鉱毒中毒も多かったそうです。
それだけ石見銀山の労働者たちは高収入と引き替えに、命に関わるリスクの高い仕事をしていたので、早死にする方が多くて、石見銀山で仕事して暮らしている人の寿命は30歳位だったそうです。
ですので、石見銀山はお寺や寺跡が多く、銀山地区コースはちょっとした山道を歩く所もあるのですが、遊歩道の道ばたには、名もわからない小さな墓石や供養塔の欠片がひっそりと集められて、草木に覆われている所も見かけました。

そんな歴史を感じながら、見えてきた仙ノ山。
仙ノ山
この山が石見銀山の中枢部分で、これから向かう龍源寺間歩(りゅうげんじまぶ)まであの仙ノ山目指して歩きます。

銀山公園から歩いてだいたい1時間くらい。最終目的地・龍源寺間歩に着きました。
銀山街道
これまで歩いてきた道は温泉津沖泊道という銀山街道で、この写真の道の先は銀の積出港・温泉津まで続いています。(そして世界へ)

銀山川に架かる橋を渡り、料金を支払って、いざ入坑!
龍源寺間歩

龍源寺間歩は正徳5年(1715)から200年間銀鉱石を産出した間歩(坑道)で、平均身長の人が少し屈んで歩く位の天井の高さでした。設置されている温度計は13度を表示。真夏日に歩いて汗だくだった体が急速に冷却され、坑内の涼しさがありがたかったです。
坑道の脇にはさらに掘り進められた小さな間歩が幾つもあり、壁天井に刻まれたノミの跡の生々しさも、当時の過酷な作業を実感させます。

龍源寺間歩のうち一般公開しているのは157メートル。一方通行の坑道を出た所は小さな峰を一つ潜った場所でした。あとはもう山を下るだけ。精錬の神を祀る佐毘売山神社を右手に下って元の銀山街道に合流。民家の庭に咲く季節の花を楽しみながら、銀山公園に到着。約2時間半の道程でした。

最後に、バスに乗って、石見銀山世界遺産センター(http://ginzan.city.ohda.lg.jp/)へ。
ここに行けば、石見銀山の歴史と産業科学のことがわかるのではないかと、私たっての希望で疲れている家族を引き連れて行きました。

まずびっくりしたのは、エントラスホールから展示室に入る入口に掲げてある巨大な丁銀。
御取納丁銀レプリカ
御取納丁銀(おとりおさめちょうぎん)の5倍拡大レプリカで、写真撮り放題触り放題。オリジナルの丁銀は現在1枚しか現存せず、戦国時代の貨幣だったそうで、毛利元就が正親町天皇即位の際に献上した丁銀だそうです。
で、センターの展示は思った以上の内容でした。歴史が好きな人、地球物理が好きな人、産業科学が好きな人にお勧めします。

****

さて、せっかくの世界遺産に来たのですから、泊まるところも世界遺産エリアで…

ということで、その日泊まった所は温泉津(ゆのつ)温泉です。
石見銀山で採掘された銀を温泉津の港から積み出した歴史ある港町です。中世より石見銀山支配の拠点であり、江戸時代には銀山奉行の幕府直轄領として、また銀山が衰退した後でも海運する北前船の基地として栄えました。またその薬効の素晴らしさで有名な温泉として、遠くからの湯治客でも賑わっていたそうです。
温泉津はもともと狭い谷を、山裾の岩盤を削って作られた町で、裕福な商人も集まり、文化の香りも漂う、特異な形で発展した港町です。

龍御前神社の奥社前から眺めた温泉津の町。温泉津湾の海まで見渡せます。
龍御前神社
本殿の後ろ脇から、岩盤を削って作り出したような石段を登って行くと、奇岩の下に建立された奥社があります。

そして、ノスタルジックな雰囲気を強く残す温泉津温泉の町。
温泉津・薬師湯
温泉津は江戸~昭和初期の建物も残されており、歴史的景観が形作られた貴重な温泉街でしょう。

実際訪ねてみて、世界遺産に指定された石見銀山のエリアだけでも、かなり広大で濃密な歴史遺産と体で実感することができました。くまなく廻るには最低一週間は必要と思います。実際一週間滞在した人がいるらしいです。羨ましい。

石見銀山の歴史のおもしろさは、世界の大航海時代、東アジアの経済交流、明国の海禁政策、倭寇の活発化など、大海を舞台とした歴史の躍動の中に石見銀山が存在したことですね。銀を求めて南米まで交易船が航海したというから、どれだけ銀が重要だったかわかります。また倭寇という集団は実は日本人だけでなく朝鮮人や中国人、ポルトガル人スペイン人も構成員だったというのも初めて知りました。通常の日本史では知り得ないことが、海から眺めた歴史の視点だと、非常にダイナミックにおもしろく知り得るということを経験したと思います。

プロフィール

webfrontier

Author:webfrontier
 歴史サークル合同企画改め歴史部 In COMITIA100
歴史部 In COMITIA100

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