ブログ形式で歴史・歴史関連の話題を紹介致します。

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真・三国無双6

東日本大震災により、被災された皆様におかれましては、心からお見舞い申し上げます。

 今回は「真・三国無双6」の紹介をしたいと思います。

 「真・三国無双」シリーズって何?と言う人に簡単な説明を行いますね。
 コーエー・テクモによる三国志に登場している武将を操作し、群がる敵兵を爽快感ある攻撃で倒していくアクションゲームです。

 3月10日に発売したシリーズ6作目の「真・三国無双6」は新たに晋が登場します。
シリーズ1~5は武将それぞれのストーリーをクリアしていくような形式でしたが、その形式を止め、「魏」・「呉」・「蜀」・「晋」の国によるストーリーになった為、(一部コーエーの脚色もあるものの)国の生い立ちから、「魏」・「呉」・「蜀」の滅亡までがわかるようになっております。

 特に今回今まで知らなかった「晋」の生い立ちが分かるのでとても勉強になりました。
 司馬一族(司馬懿、司馬師、司馬昭)がいかに過去の亡者達と戦って国を1つにしたのかと言うのが(コーエーの脚色もありますが)今回一番印象に残りました。

 興味がありましたら是非プレイしてみてください。
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加藤清正と薩摩兵児①熊本城

先日に起こりました「東北地方太平洋沖地震」により、近日開催予定だった同人誌即売会が相次いで開催中止していますね。仕方がないとはいえ、ちょっとさみしいです。
それで5月のCOMITIA96の場合ですが、
会場となる東京ビッグサイトも施設の被害は受けるも、開催まで修復が間に合うということで、予定通りの開催となったことに一応ホッとしている幽翠街道です。

**********

今回は戦国時代関連に触れてみたいと思います。
といっても、全然守備範囲ではないのですが・・・

日本神話スキーの幽翠街道は、年に1回は必ず九州旅行をしています。
それで今年はどこ行こうと考えたところ、以前から行きたいと思いつつ、あまり行かない九州の西海岸側に足を運びました。

「武士道」=「男色文化」という図式に興味があって、色々調べたところ、薩摩兵児(へこ)にたどり着き、
薩摩兵児のことを調べたら、加藤清正にも関係がありそうということで、高千穂から熊本に向かいました。


観光客らしく熊本駅前から市電に乗り、下車後とことこ熊本城まで歩いて行ったら、
出迎えてくれたのは清正公の銅像。

清正公銅像


さらに城内に登城すると、勇壮な熊本城。
お城の事も戦国時代の事も全く無知なので、ボランティアのガイドさんの案内で行くことにしました。

天守。昭和35年に復元されたお城です。慶長12年(1607)に加藤清正が創建してから明治で焼失するまで、多少の改造はあったものの、その姿は当時とあまり変わらなかったそうです。

熊本城天守

ガイドさんの話を伺うと、本当に戦いに備えた城作りなんだなあと感心ばかりです。
城と言うより、要塞ですよね。

鉄壁な防衛力と美しい曲線を持つ“清正流石垣”。

清正流石垣

熊本城にとって最大の事件が西南戦争です。
本丸の石垣の一部にはヒビが入って、表面が剥がれたような形をした石垣があります。
これは西南戦争の時に天守が火災で焼失した際、その熱で剥離してしまったものだそうです。
出火原因は今もわからないそうですが、物凄い熱量だったことが想像できます。


熊本城で起こった西南戦争。西郷隆盛を中心とした鹿児島の士族らが反政府の軍事行動を起こしたのに始まった内乱だそうです。
明治になって軍用地となり、鎮西鎮台(後に熊本鎮台)となった熊本城を、北上してきた薩摩軍が攻撃。
それに対し、熊本鎮台は籠城して迎え撃つことになりました。その籠城準備中に天守が燃えたそうです。
薩摩軍の砲撃や水攻めにも耐え、50日余りの籠城戦の結果、熊本城は解放。
薩摩軍はのちに九州山脈を縦走し、人吉まで敗退。
この明治の籠城戦が、加藤清正が堅牢な守りとして築城した熊本城の真価を、あらためて見せつけた戦いとなりました。


さて一方で、50日余りも戦い続けられた薩摩軍もなかなかだと思うのですが、
この薩摩武士の性格というか性質を、私視点で見ていくと、とてもおもしろいものを感じます。
隣国の薩摩の者達にとって、加藤清正の肥後入国は相当なインパクトを与えたようです。

本当はこれ1回で終わらそうと思ったのですが、薩摩側のことを書くと長くなりそうですし、
もう少し勉強させて頂きたいので、これで一旦今回の記事を終わらせて頂きます。
次回は薩摩兵児のことを書く予定でいます。

心よりお見舞い申し上げます。

踏ん張れ。私も踏ん張る。
こんにちは。今週分を担当します幽翠街道です。

平成23年(西暦2011年)3月11日、14時46分頃、三陸沖を震源とする「東北地方太平洋沖地震」が発生しました。
マグニチュード9.0、宮城県栗原市では震度7、そして宮城県・福島県・茨城県・栃木県の広い範囲で震度6強を観測した(気象庁HPより)という巨大地震でした。
激しい揺れだけでなく、東北地方と北関東の太平洋沿岸には津波が押し寄せ、風光明媚なリアス式海岸では高くなった津波が襲い、高台が遠く平地が多い仙台市では、逃げ切れなかったたくさんの被災者が陸に上がってきた津波にのみ込まれてしまったとか。
町ごと津波の水で流されてしまった被害家屋の報道映像を見て、日ごとに犠牲者の数が増えている現況に胸が痛いです。
この震災で亡くなられた方々にはご冥福をお祈りすると共に、福島原発周辺住民の方々を含め、被災された全ての方々に心からのお見舞いを申し上げます。

この大震災は、1900年代以降世界で4番目といわれる程の巨大地震となり、国内観測史上未曾有の震災といわれています。
日本の地震対策の場合、過去に起こった被害記録を元に、平素から建物の耐震性や防災・救済対策などを講じています。
ところが今回の震災は、その万全と思われた準備や対策を凌駕する災害をもたらしました。
日本は1000年以上も前からの地震記録を持っていて、それは良好な資料として、世界的にも評価が高いのですが、その記録をさらに上回るほどの未曾有の大震災でした。
そんな大震災ですから、過去のデータを土台にした対策が生かし切れていないのは当然だと思います。
ですから私たちも“昔はこうだった”というのではなく、未曾有の震災に対し、ひとりひとりが出来る範囲で最大限のことをするのが重要ではないかと思います。

でも一方で、地震国・日本の国民として、すごいと思うのは、震災に対する冷静さはもちろんですが、
被災者のために、被災されていない人々が何かを我慢できることです。
私の職業は小売り関係(東京・都心部店舗)なのですが、品薄どころか欠品状態の、棚ガラガラの中で、せっかく来店されても食べ物が買えないお客様に、“商品は被災地優先で送られているから”と謝りながらいうと、皆さん笑って“じゃあ仕方がないわね”“東北の人のことを思えば”と納得されてくれます。
中にはユーモアのあるお客様もいて“これはこれで良いダイエットになるわv”と笑いながら会計を済ませてお帰りになる人もいました。
ですので、1分1秒でも早く救援物資が被災者の手に渡るよう願って止みません。(だから買い占めはやめてねvマジでv)

また計画停電による各鉄道の運休のため、JRの某駅で、寒い中並ぶ長蛇の列を見かけました。
警察の人が整理していたとはいえ、静かに整然と並ぶ人たちには感動しました。これも“東北の人を思えば”という気持ちが心の奥底にあるからだと私は信じたいです。
ですので、寒さで震えている被災者に少しでも暖かい灯火(ともしび)が届くよう祈って止みません。

自衛隊に加え、海外の各国から救援部隊が来日されて、一人でも多くあの瓦礫から生存者が救われるように。
疲労困憊ながらご家族や友人の行方が判らなくて心配されている被災者の方々、自分も被災者なのに身内の無事が確認できないまま、それでも同じ被災者のお世話をしている現地の方々、頭が下がります。
原発で命削って作業している方々、最悪のシナリオにならないよう頑張っていると思います。私も日本人としてエールを送りつつ、是非なんとかして欲しいと思っています。

この「東北地方太平洋沖地震」がもたらした様々な災害が後世、日本の歴史に、世界の歴史にどう記されるのか、もしかしたら私たち一人一人の頑張りと踏ん張りにかかっているのかもしれません。

では、長くなってしまいましたが、最後に。
歴史部の主なスタッフは南関東在住で、今も余震の起こる毎日ですが、全員元気です。
幽翠街道はその中でも、生活と通勤の支障もなく、今のところ計画停電の影響のない所にいます。

ですので、このブログ記事をもって、幽翠街道は通常態勢に切り替えます。
今週中にもう一つ、歴史的な普通の記事が書ければいいなぁと考えています。
平常心も大切だと思いますから・・・・

梅から桜へ

こんにちは、竹河せりかです。

桃の節句も終わり暖かくなったと思ったら、関東はいきなりの雪模様。
盛りを迎えていた梅の花も、今日は雪を纏って
少し寒そうにみえました。

現代では『花見』と言えば、桜の花を愛でる行為を指しますが
奈良時代には『花』と云えば、“梅の花”を指しました。

白梅


梅は中国原産の花木で、かなり古い時代に日本へ伝わったようです。
日本最古の歌集『万葉集』では、萩に次いで多く詠まれていますが
萩が庶民から宮人まで広く詠まれているのに対し、
梅を詠んだ和歌は、上流階級に偏っています。

これは、貴重な花木である梅が
専ら貴族の屋敷に植えられていたから・・とのこと。
貴族の館では、しばしば「観梅の宴」が催されていたようです。

時代が下り、平安時代に編纂された『古今和歌集』では
梅の地位は、桜にとって代わられてしまいます。

日本に自生する桜の品種は約10種。
はるか縄文時代から、桜を眺めてきた(とされる)日本人ですが
稲作の伝来によって、更に重要な植物となったようです。

桜の開花は、「種まき桜」とも云われ
農作業の開始を知らせる大切な指標でした。

その為、桜の花を愛でる『花見』は、一年の豊凶を占う花占いが
源流とも言われています。

山桜


ともあれ、『花見』は、現在にも受け継がれている風習ですね。
花の下での宴会も良いですが
たまにはゆっくり、頭上の桜を眺めてみても
宜しいのではないでしょうか。
プロフィール

webfrontier

Author:webfrontier
 歴史サークル合同企画改め歴史部 In COMITIA100
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