ブログ形式で歴史・歴史関連の話題を紹介致します。

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加藤清正と薩摩兵児②出水麓武家屋敷群

幽翠街道です。
すみません。長いことブランクを空けてしまい申し訳ありません。
さすがにここまでだと、他の担当者からお叱りを受けてしまいすね。本当に申し訳ありません。
みなさん、先日の夏コミ、節電対策も加わった猛暑イベントでは如何でしたでしょうか?

さて、歴史部の間でも、メンバーが顔を合わせる度に、大河ドラマや歴史っぽい漫画・アニメ・ゲームの話が頻繁に飛び出しては、非常に楽しい時間を過ごさせて頂いています。
その中でも特に「戦国BASARA」関連の話題は事欠きません。

はっきり言って、歴史部にとって「戦国BASARA」は爆笑ネタの宝庫です。

かくゆう私も、某チャンネルのTVシリーズ一挙放送を観る機会に恵まれて、画面指さし抱腹絶倒。
勧められて劇場版を観ては、毛細血管がブチ切れそうなツッコミを映画館内なので我慢したり。
戦国武将のおいしいトコロだけをチョイスし誇張した、ミラクル格闘SFファンタジーですよね。
劇場版について言えば、石田三成が非常にオイシイです。勧められる理由がわかります。
もう歴史とか史実とか考えないで、最後に爽快感を味わうのがこの作品の楽しみ方だと思います。

*******

では近況報告はここまでにして、九州の旅レポの続きを。

加藤清正が入国した国のお隣・薩摩国。
神話・古代以外の目的では訪ねなかった地域ですが、「島津氏の歴史は知っといた方がいいよね」、
と、沖縄の歴史に触れたり、奄美大島に出かけたりした時になんとなく漠然と思ってました。
(奄美にも唯一無二のいい史跡があるんですよ~~)

それで今回は守備範囲外の理由で初めて鹿児島県にやってきました。
九州新幹線が全線開通する直前だったので、熊本から在来線と新幹線を使って、出水市に到着。
新幹線出水駅
九州新幹線出水駅ホームからみる出水平野


薩摩兵児を調べるためになぜ出水市を選んだのかというと、
肥後国と隣接し、薩摩兵児に関する資料が豊富で、その研究も充実しているというのがあります。
まあ、あとは鹿児島空港経由で東京へ帰るのに交通の便が良かったというのが、出水市訪問の決定打になりました。

戦国時代の史跡の歩き方は全然知らないので、とりあえず出水麓武家屋敷群へ行けばなんとかなるだろうと、駅から徒歩で出発。徒歩だと意外と遠いことに激しく後悔しましたが、武家屋敷群は出水平野の小高い地形に建てられているということが実感できます。

長い坂を上がって息を切らして武家屋敷群の敷地に入ると、閑静にして静寂な住宅地ながら歴史の重みを感じる家の石垣。
自分が観光客だからなのか、生活感は感じるのに非日常的な感覚。そこを歩くだけで歴史に触れている、という楽しさがあります。
観光地といっても、武家屋敷にお住まいになっている住人もいらっしゃるので、静かに散策。
だけど個人を特定するもの以外の写真撮影はバッチリ。
宮路邸
大河ドラマ「篤姫」のロケ地にもなった宮路邸


薩摩の島津というと、戦国時代以来の有力大名というイメージだけでしたので、そこまでに至る一族内部の勢力争いのことは全然知りませんでした。
島津宗家の分家筋である薩州島津家が出水を支配していたのですが、群雄割拠の戦国の時代、宗家に匹敵する勢力を持っては反抗を繰り返していました。
伝統的に仲が悪かった宗家と薩州家。
豊臣政権の時代になると、薩州島津家7代目忠辰(ただとき)は、主家・島津義弘の配下ではなく、あくまで豊臣直属の領主であることを主張し、義弘の支配から離脱するようになります。
この行動は、島津義弘だけでなく豊臣秀吉にとっても頭痛のタネだったようで、度重なる忠告にも無視し続けた忠辰は、とうとう朝鮮出兵の最中、秀吉により粛正されてしまいます(一説では病死)。
領地も没収され、薩州家も断絶。主を失った一族・家臣一同は路頭に迷い、政権の直轄領となった出水五万石は荒廃の一途をたどります。

文禄・慶長の朝鮮出兵の後、出水五万石は島津義弘と息子の忠恒への褒美として薩摩に返還されます。
そして、薩州家断絶から約6年間、混乱を極めた出水に対し、忠恒は復興に着手します。
この頃に、出水は国境の重要な要地として認識されてきたようです。

天下分け目の関ヶ原。義弘が率いる島津勢は西軍に属し、勝敗の結果、敗れて鹿児島まで敗走することに。
この頃、肥後の加藤清正は、東軍でいながら関ヶ原戦には参加せず、小西行長の宇土城を守っていた弟の小西長元を攻めます。長元は薩摩の義久に救援を求めてきたので、義久は出水勢を差し向けて、清正所領の佐敷城を取り囲みます。ところが西軍の敗戦を聞き、囲みを解いて出水に退きました。この時、出水衆は佐敷から引き上げる途中、田之浦のお百姓さんをたくさん連れ帰って来ます。
加藤清正にしてみれば、多くの労働者を拉致されたわけですから、西軍に荷担した島津氏を攻めるべく進軍します。
ところが出水に迫ろうとする時、戦の容易ならざるを感じて、進軍を中止して、義弘・忠恒宛に書を送り、徳川家康に謝罪するよう勧告します。
和平交渉の末、島津氏は徳川政権と和解しても、一方では国境の防備を強化し、その中でも特に出水には、藩内の中でも屈強の武士を各地から集めます。

島津氏の九州制覇や秀吉の西征と朝鮮出兵などで、急速に膨れ上がった武士人口を処理するため、城下に収容しきれない武士を藩内の要所の郷村に配置するという、兵農一致政策をとります。
鹿児島の鶴丸城を本城(内城)として、薩摩国内の計113郷に武士集団を配置して地頭を置き、その居住地を外城と呼んで薩摩の防衛に当たらせます。出水外城はその中でもとりわけ重要視されていたようです。
出水外城に着任した初代及び2代目の地頭は、100余名の移住者の屋敷配分のため、城山に続く台地の整備にかかり、麓には東西に三筋・南北に三筋の道を、屋敷面よりも低く通して、外城の整備を進めました。
3代目の山田昌巌の代になると、麓の整備は完了し、屋敷周りの石垣や生け垣などの整備が行われたそうです。
武家屋敷石垣
武家屋敷の敷地が小路より高く作られています。その段差を石垣が支えています。


この山田昌巌という人が地頭在任中に、「出水兵児」という青少年の教育・軍事訓練を実践する“健児団”を創設しました。
薩摩兵児を具体的に知るには、まず出水兵児からと思っていますが、もうちょっと勉強したいので、今回は一旦これでお終いにします。
(この記事、書き換え・追記があるかもしれません)

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遺跡に親しむ

こんにちは、竹河せりかです。

いよいよ関東も梅雨明けですね。
暑さをどう乗り切るかが
しばらく悩みのタネになりそうです。

ところで、私の中で
この時期欠かせない展示会がコレです。

「発掘された日本列島」

この展示会は・・・

近年、発掘された遺跡から、
(旧石器時代~近代まで時代も様々)
特に注目されるモノを選んで
〝どちゃ〟っと見せてしまおう・・・という、
大らかな?企画です(・・・ちょっと語弊があるかも)。

しかし、この展示方法により
却って〝その時代に生きていた人たち〟の
息吹が感じられるような気になります。

また、撮影もOK(フラッシュは禁止)なのが嬉しい

東京では
7/31まで開催されているようです。
また、その他の地方でも順次回るようですよ
(詳細はコチラ↓)

http://www.bunka.go.jp/oshirase_event/2011/hakkutsu_2011.html
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