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日食を観た日、石見銀山へ行きました。②

こんばんは。幽翠街道です。
今現在のマイブームは「うた恋い。」です。竹河様に奨められたのがきっかけですが、第三巻の清少納言と藤原行成の友情(?)にドハマリました。来月からのアニメ版が楽しみです。

さて、前回の続きです。

日食を観た後、ホテルを出発し、JR山陰本線に乗車。行き先は温泉津です。
温泉津駅からは石見銀山へ行くには、タクシーを使いました。
石見銀山のガイド(http://iwamiginzan-guide.jp/)の申し込みが石見銀山公園という観光案内所で出来ると聞いたので、初心者はここから石見銀山の銀山地区コースを見て歩きスタート。

石見銀山は伝承上では南北朝時代から銀が採れていたそうですが、産業史として現れてきたのは、大永6年(1526)頃。博多の商人神屋寿禎(かみやじゅてい)が石見銀山を発見したのが始まりだそうです。
そして、天文2年(1533)神屋寿禎は、隣国の李氏朝鮮から宗丹・桂寿をヘッドハンティングし、銀の精錬に灰吹法(はいふきほう)を導入させ、銀の大量生産を起こさせました。
これがきっかけで、日本は銀の輸入国から輸出国へと変貌し、銀を中心としたアジア経済に大きな変流をもたらしました。

下河原吹屋跡
その灰吹法により銀を洗練した吹屋の一つ、下河原吹屋(しもがわらふきや)跡。 江戸初期のものだそうです。


石見銀山は当初は露頭掘りだったそうですが、時代が下るにつれて、地下深く坑道を掘り進めて採掘するようになると、当然労働環境が劣悪になります。坑道で掘り進めば粉塵が出るし、狭い地下で灯りをともすため二酸化炭素も充満しちゃう。それが原因で呼吸器系の疾患にかかる人が続出。また灰吹法は鉛を溶かして銀を精錬するので、鉱毒中毒も多かったそうです。
それだけ石見銀山の労働者たちは高収入と引き替えに、命に関わるリスクの高い仕事をしていたので、早死にする方が多くて、石見銀山で仕事して暮らしている人の寿命は30歳位だったそうです。
ですので、石見銀山はお寺や寺跡が多く、銀山地区コースはちょっとした山道を歩く所もあるのですが、遊歩道の道ばたには、名もわからない小さな墓石や供養塔の欠片がひっそりと集められて、草木に覆われている所も見かけました。

そんな歴史を感じながら、見えてきた仙ノ山。
仙ノ山
この山が石見銀山の中枢部分で、これから向かう龍源寺間歩(りゅうげんじまぶ)まであの仙ノ山目指して歩きます。

銀山公園から歩いてだいたい1時間くらい。最終目的地・龍源寺間歩に着きました。
銀山街道
これまで歩いてきた道は温泉津沖泊道という銀山街道で、この写真の道の先は銀の積出港・温泉津まで続いています。(そして世界へ)

銀山川に架かる橋を渡り、料金を支払って、いざ入坑!
龍源寺間歩

龍源寺間歩は正徳5年(1715)から200年間銀鉱石を産出した間歩(坑道)で、平均身長の人が少し屈んで歩く位の天井の高さでした。設置されている温度計は13度を表示。真夏日に歩いて汗だくだった体が急速に冷却され、坑内の涼しさがありがたかったです。
坑道の脇にはさらに掘り進められた小さな間歩が幾つもあり、壁天井に刻まれたノミの跡の生々しさも、当時の過酷な作業を実感させます。

龍源寺間歩のうち一般公開しているのは157メートル。一方通行の坑道を出た所は小さな峰を一つ潜った場所でした。あとはもう山を下るだけ。精錬の神を祀る佐毘売山神社を右手に下って元の銀山街道に合流。民家の庭に咲く季節の花を楽しみながら、銀山公園に到着。約2時間半の道程でした。

最後に、バスに乗って、石見銀山世界遺産センター(http://ginzan.city.ohda.lg.jp/)へ。
ここに行けば、石見銀山の歴史と産業科学のことがわかるのではないかと、私たっての希望で疲れている家族を引き連れて行きました。

まずびっくりしたのは、エントラスホールから展示室に入る入口に掲げてある巨大な丁銀。
御取納丁銀レプリカ
御取納丁銀(おとりおさめちょうぎん)の5倍拡大レプリカで、写真撮り放題触り放題。オリジナルの丁銀は現在1枚しか現存せず、戦国時代の貨幣だったそうで、毛利元就が正親町天皇即位の際に献上した丁銀だそうです。
で、センターの展示は思った以上の内容でした。歴史が好きな人、地球物理が好きな人、産業科学が好きな人にお勧めします。

****

さて、せっかくの世界遺産に来たのですから、泊まるところも世界遺産エリアで…

ということで、その日泊まった所は温泉津(ゆのつ)温泉です。
石見銀山で採掘された銀を温泉津の港から積み出した歴史ある港町です。中世より石見銀山支配の拠点であり、江戸時代には銀山奉行の幕府直轄領として、また銀山が衰退した後でも海運する北前船の基地として栄えました。またその薬効の素晴らしさで有名な温泉として、遠くからの湯治客でも賑わっていたそうです。
温泉津はもともと狭い谷を、山裾の岩盤を削って作られた町で、裕福な商人も集まり、文化の香りも漂う、特異な形で発展した港町です。

龍御前神社の奥社前から眺めた温泉津の町。温泉津湾の海まで見渡せます。
龍御前神社
本殿の後ろ脇から、岩盤を削って作り出したような石段を登って行くと、奇岩の下に建立された奥社があります。

そして、ノスタルジックな雰囲気を強く残す温泉津温泉の町。
温泉津・薬師湯
温泉津は江戸~昭和初期の建物も残されており、歴史的景観が形作られた貴重な温泉街でしょう。

実際訪ねてみて、世界遺産に指定された石見銀山のエリアだけでも、かなり広大で濃密な歴史遺産と体で実感することができました。くまなく廻るには最低一週間は必要と思います。実際一週間滞在した人がいるらしいです。羨ましい。

石見銀山の歴史のおもしろさは、世界の大航海時代、東アジアの経済交流、明国の海禁政策、倭寇の活発化など、大海を舞台とした歴史の躍動の中に石見銀山が存在したことですね。銀を求めて南米まで交易船が航海したというから、どれだけ銀が重要だったかわかります。また倭寇という集団は実は日本人だけでなく朝鮮人や中国人、ポルトガル人スペイン人も構成員だったというのも初めて知りました。通常の日本史では知り得ないことが、海から眺めた歴史の視点だと、非常にダイナミックにおもしろく知り得るということを経験したと思います。

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日食を観た日、石見銀山へ行きました。①

こんばんは。幽翠街道です。
梅雨の季節になりましたね。皆さんいかがお過ごしですか。
部屋のあちこち、体のあれこれに、カビが生えそうであまり得意な季節ではありませんが、
植物たちにとっては、次に訪れる夏に向けて、たくさん水を取り込める嬉しい季節でしょう。

さて、コミティア100が終わり、幽翠街道は家族を連れて出雲旅行に行ってきました。
前泊サンライズ出雲、旅行先の出雲で三泊四日の大旅行でした。
ここではその過程の一部、石見銀山へ向かった日のことを書き記しますね。

玉造温泉・長生閣というホテルで一泊した朝、その日は太平洋側の方では金環日食でフィーバーした日でした。
島根県出雲地方は日本海側なので、部分日食の域なのですが、当日は雲一つない快晴でした。
泊まった部屋も東向きだったので、メモ用紙に細いボールペンで穴を開けた即席の観察用具でピンホール観察。
(旅行先で観ようとせっかく買った日食グラスを忘れたお馬鹿さんな私)
部分日食とはいえ、食はかなり深く、晴れた強い太陽光のおかげで、映し出された日食の光は綺麗に三日月型になっていました。

そして、ホテル内で木漏れ日がどこかにないかと、朝食もそこそこに歩き回ったら、ロビーにありました。
綺麗に整備されている中庭に面しているロビーでは、日食観察している宿泊客で賑わっていました。
その中庭に置かれている植木の木陰に、太陽の光が差し込み、地面に映し出された光に近づいて観ると、
これもまた見事な三日月型の木漏れ日でした。
玉造温泉・長生閣
ただ今、日食中・・・
長生閣・日食


ここ玉造温泉は『出雲国風土記』や『枕草子』に記載されている由緒深い温泉地で、古代では青瑪瑙が採掘され、玉作りを生業にしていた人々が住んでいたといわれています。(実際そういう史跡があります。)
また、三種の神器の一つ、八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)は櫛明玉命(くしあかるだまのみこと)によって作られ、その神を祀った神社が玉作湯神社で、その神社は玉造温泉街の奥に鎮座しています。
玉作湯神社
玉作湯神社境内にある真玉と御守石(青瑪瑙原石)


つまり、天文ファンにとっては、日食はただの自然現象かもしれませんが、
日本神話スキーからすれば、古代の聖地で日食に立ち会えたことは、特別の意味があり、古代人の思いに少しでも近づけるまたとない機会で、ある意味神聖な時間かもしれません。(その割にはドタバタと駆け回っていましたが)

金環日食の日に出雲へ出かけたのは、ほんの偶然ですが、大変幸運なことかもしれませんね。(私にとって)


では、長くなりそうなので、一旦切って今週中にでも続きを書こうと思います。



日食のこと

こんにちは、竹河です。
ブログの更新を滞らせてしまい
申し訳ありません(って毎回書いていますね…)

さて、5月21日の金環日食
皆様は、ご覧になりましたでしょうか?


今回の金環日食は
中部~太平洋側が観測可能地域だったようですね。

私は出勤途中で遭遇し、曇りだったこともあり
5分間ほど金環状態を観察することができました。

金環日食1
こちらは、部分日食

金環日食2
金環状態

金環日食3
日食の際は、朝にも係わらず
周囲はみるみる暗くなっていきました。

日食(日蝕)…とは
太陽が月によって覆われる現象のこと。

日食における古い記録は
『日本書紀』推古天皇の項にあり
「日蝕え尽きたり」と記されています
(その為?日蝕の五日後、天皇は亡くなっています)

日食を起こす星は〝羅睺(らご)〟と称され
王朝の象徴・太陽を蝕む存在であることから
大凶な星だったようです
(昔は、日食観測なんてありえなかった!)

その他、天照大神の〝天の岩戸伝説〟は
日食を表しているとも云われています。
また、邪馬台国の時代の日本でも日食が起きた可能性があり
卑弥呼が死んだ年が、日食に当たるのでは…とも云われています。

現在では大いに楽しめる天体ショーも
古代人にとっては、得体の知れない・恐ろしい現象だったのですね。
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Author:webfrontier
 歴史サークル合同企画改め歴史部 In COMITIA100
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